日々は巡る。



静かな悲しみが漂う、うっそうとした森。
街中の喧騒から切り離された、そこは別世界。

全てのものが、時が止まってしまったかのように…。
忘れられた、森。

ここでかつて、忌まわしい事件が起こった事など忘れてしまったのように、
その森はただ、静かにそこにあるだけだった。

そうして…来るべき人を、待ちながら。



「おぉーい、セラティ君ー! 」

誰かに呼びかけるような、そんな掛け声が、森の中に木霊する。

見れば、少し小太りの、人のよさそうな初老の男性が、綺麗なハンカチで汗を拭きながら、坂道を転がるようにして上っていく。
その先には、セラティと呼ばれた人物が、何食わぬ顔で平然と歩いていた。


「どこまで行くんだい…あわ、わあぁ!」
ゴギッ バキッ ズザザァァーッッ

凄まじい音がして、ん?とセラティが振り返る。

「教授、どうし…あ、れ…?」
さっきの声はどうも教授の声だったような気がして、声をかけた、が…
ふりかえると教授はいない。

おや?、と首をかしげるも、
「ふむむ…まあ、いいか」そういってまた何事もなかったかのように前を歩き出した。

すると不思議なことに、どこからか「よっよくないぞー!」 という…教授の弱弱しい声が聞こえた。

「教授…?どこだ…?」 セラティは眉をひそめる。

「おーぅい、ここだよー! は、はやく、助けてくれーっ」
何やら向こうの方から誰かの切羽詰った叫び声が聞こえてくる。

あっちのほうから声が…?確か、向こうはがけのはずだが。

おそるおそる、声のする方向へ歩み寄る。

突然、足元で教授の声が聞こえた。
「下だよ、下。」

ふと視線を落とすと…

ぎりぎりのところで…
教授が崖の下にひっかかっていた。


「分かったぞ」
納得がいったように、ぽん、と手をたたく。
教授はほっとしたように頬を緩め、助けてもらおうと手を伸ばした。
「そ、そうか!ああ良かった。早く助けて…」
そして、セラティは―
さし伸ばした手を、踏みにじった。
「痛ぁっ!」
拍子に、ずるっと一ミリほどずり落ちた…。


「なっ何でだ?!」
目じりに涙を浮かべながら、教授が悲痛な声を上げた。

「私には分かっている。お前は教授ではないな。
教授は実は死んでいて、そこにいるのは教授にとりついた悪魔ッ!
小癪な!私を騙そうったって、そうはいかない!」

…完全に勘違いしていた。

「そう、我こそは大魔王の使いなのだっ! って、そんなわけなかろう!冗談はよして、早く助けてくれっ!」
「む。違うのか。おもしろくないやつだな。今助けるから騒ぐな」
そういって、今度こそ、教授を引っ張り上げた。

そして、ポツリ、と一言。

「教授、また太ったんじゃないか?」

「余計なお世話だぁっ!」



そうして2人は、さっきからずっと、無言で歩いていた。
「せ、セラティ…君?」
不安そうにする教授。
それでも…
セラティは何も答えない。


森は瑞々しい青から、さび付いた茶色へとだんだん変わってきていた。

まるで、そこだけが世界から切り取られ、時間の流れから取り残されたような―



そして、やっと、足をとめる。

一箇所だけ、青く瑞々しい一株の樹木が。

セラティが、呟く。
「見つけた…君を」

ザァー

風が、森が――鳴いた。



それは、教授からみても、ひどく、異様で…
ありえない、と彼は思う。
だけど、彼女なら。
そう思う自分がいるのは確かだった。

彼女は誰かと話していた。
その会話を聞く限りは、そう。

だが―どんなに目を凝らしても、その誰か、を認識することは出来なかった。

彼女はまるで、そこに誰かがいるように、 何もない場所・・・・・・に向かって話しているのだった。

「…から、君は救われたのだろう……?」
「…だ……の、物語によって……たとえ、…が…としても」

しかもそれは一つの会話として成り立っていた。
まるで電話口でしゃべっている会話を盗み聞きしているような感覚に、彼は眩暈を覚える。



「そう。僕は救われた。彼女が…救ってくれた。それは事実だ。
たとえ、それがいずれは覚めてしまう夢だとしても。
たとえ―優しい優しい、ひとつの嘘だとしても」



「…てほしい。彼を…恨まないと…」
「…そして…彼女を…」

「…ナ…を」



「ッー!」
教授は、目を見開いた。
彼女は、セラティは、不鮮明な声で―けれど確かに、こう言った。

リエナ、と。

それは、あの少女の名前。
教授自身が彼女に頼んだ、依頼人の名前。

その時、初めて気が付いた。
この森が、少女があの現象にあったという森だということを。
そしておそらくは。

「…ありがとう。ウィル…君。」

セラティが話しているのは、死んだ、少年。
リエナが出会った……ウィル・マスター…


風が、吹いた。

「さようなら」

耳元で、あどけない、
幼さの残る、微かな―声が。

少年の、声が…聞こえた。



「セラティ…君…っ…」
教授の悲痛な声に、セラティが振り向く。

今にも泣き出しそうな顔の教授を見ながら、セラティは、ふっと、笑った。
「そんな顔をするな。大丈夫。彼は―ウィルは、行ったよ。彼の、居るべき場所へ…楽園へ」

セラティの微笑が、どこか痛々しく思えた。

「…わ…悪かった……君を、こんなに辛い目に…!」

セラティが、キッと、こちらを見据えた。
「そう思うくらいなら、最初から頼んでくれるな」

「ぁ…」
どこまでも冷たい、その深い瞳が、彼を竦ませた。


「…なーんてな。おい、大丈夫か?なに、冗談だよ。 呆れたな。それぐらいで私が怒ると思ったのか?」

そう一気に早口でまくし立てた。

「へ?」
「んーそうだな、いつもの店のケーキを1ホールでいいぞ。私は慈悲深いからな。それで許す。ああ、なんて慈悲深い!」
呆けたように立ち尽くす教授をよそめに、セラティは次々と注文をつけていく。

「ま、まちたまえ、たしかあれはかなり高いはずじゃ…」
我にかえって反論するも、もう後の祭り。

「うるさいぞ。つべこべいかないで行く!」
「君ぃ!私だって食べたことないのに……」



どこかで、鳥のさえずりが聞こえる。

「救えたから…いいんだよ。私は、これで、いいんだ―」

その呟きは、だれにも聞かれることなく―
森の静けさの中に、消えていった。